中国茶の歴史


全てのお茶のルーツは中国にあります。
原産地は現在の雲南省から四川省あたりといわれています。
今でもこの地域にはお茶の木とは思えないような“巨木”が数多く残っています。

唐代、お茶の神様と言われる“茶聖”陸羽は、その著書『茶経』において茶の起源は紀元前2,700年前頃まで遡ると記しています。
当時、茶は飲用ではなく食用(薬用)とされるのが主であり、飲用としての利用方法は確立されていなかったようです。
お茶が飲用として活用され始めたことを著す最初の文献は、紀元前59年に記された『僮約』(どうやく)とされています。
茶の飲用としての歴史は約2,000年ということになります。

唐代に入ると上流階級から徐々に庶民へ茶を飲む風習が広がりを見せます。
特別な人だけが嗜むものから日常生活に欠かせないものに変革していきます。
当時は現代のような茶を保存するための手段がないため、保存を容易にする『団茶』といわれる緊圧(固形)茶が主流でした。
また、この時代には茶の普及に目をつけた政府が、茶を専売制として課税の対象としました。
同時に『貢茶(ゴンチャア)』、つまり皇帝献上茶の歴史も始まります。
この後の各王朝の皇帝はこの『貢茶』によって様々な茶を献上させていきます。
中国において『貢茶』は茶の価値を高める一つの要因になっていることは間違いありません。

中国西方の遊牧民族との間で茶と馬を交換するいわゆる『茶馬交易』が始まったのもこのころといわれています。
北方民族の侵略に備える漢民族は軍馬を求め、肉食中心の遊牧民族は牧草地帯で生産できない茶を求める。
『茶馬交易』は互いに有益であり理想的な貿易であったようです。
『茶馬交易』が盛んになるにつれて往来の道も整備されました。『茶馬古道』と呼ばれるこの道は果ては現在のインドやミャンマーまで続いており、
シルクロードと双璧をなす重要な役割を果たしたといわれています。

宋代は庶民に茶を飲む風習が広がった転換期です。
飲む人の変化と比例し、これまでの茶の常識であった団茶(固形茶)に加え散茶(茶葉のままのお茶)や抹茶も多用されます。

明代となり、明太祖の朱元璋が「団茶廃止令」を出したことにより、散茶が主流となっていきます。ここから茶の歴史は大きく変革していくこととなります。
現在の茶のスタイルの原型はこの時代にあるようです。
同時に強力な統一国家に支えられ、茶文化も一般庶民に広く普及します。
龍井茶が有名になるのもこの頃からです。
茶器も充実し、紫砂壷(江蘇省宜興市で造られる茶壷(→急須のこと)も造られました。

清代は明から受け継いだ茶文化がさらに大きくなって行きます。
清には康煕帝や乾隆帝など茶に絶大な影響を与えた皇帝が多く、階級を問わず茶文化の隆盛に大きく影響を及ぼしています。
烏龍茶では工夫茶(手間をかけて香りと味を引き立てる入れ方)が確立されより多様化された茶の愉しみ方が文化として形成されます。
他方では水路での海外貿易が始まり、ヨーロッパ諸国にも中国の茶が紹介されるようになりました。
当初、緑茶、そして烏龍茶(武夷茶)が輸出されましたが、発酵の高い茶を好むヨーロッパ人は紅茶との相性が良く、イギリスで大喫茶ブームとなりました。
あまりの喫茶ブームに茶を購入するための銀の流出が激しく、貿易赤字となったイギリスは、アヘンを中国に密輸しその赤字を埋めようとしました。
アヘンは瞬く間に中国全土で流行し、今度は中国の銀が流出し、清朝は混迷をきたします。
これが後のアヘン戦争のきっかけとなります。

中華民国建国以降も茶は発展を続けましたが、中華人民共和国の文化大革命で茶は贅沢品として弾圧されました。茶文化は衰退しましたが、反面、台湾や香港ではそのすばらしさを受け継ぎ、それぞれ独自の茶文化を形成する結果となりました。
現在では茶の栽培、交易、販売は完全に復興し、新たな茶文化が日々生まれています。